日本アイアールの社史
日本アイアールは、何を業としている会社?
商売によっては、いくら説明しても分って貰えない商売がある。うちの社員も親戚や友達から「お前さんのところ、いったい何をしている会社だ?」と聞かれて返答に困っているようだ。特許関係の仕事です、というと、では特許って何だ、という話になる。一般の人には、特許というのは非常に縁遠いものである。やや事情通になると「特許事務所ですか」と聞いてくる。特許事務所というのは特許の出願に規定の書類がいるので、その代筆をする仕事である。「いや、うちは特許のことをいろいろと調べる会社です」と応えると余計に分らなくなる。総会屋系統の怪しい会社を想像する人も居て、この商売いつになったら認知されるのかいな、と心細くなってくる。日本アイアールの「IR」は、Information Retrievalであり、Investors Relationsではない。
日本アイアールのルーツは1966年設立の「宇野書店」
日本アイアールの初代社長、伊藤春樹氏(元TBSプロデューサー)が個人の趣味で設立した資本金30万円の零細出版社が日本アイアールのルーツである。原爆に被爆した子供の手記、「僕は生きたかった」や「日本貧乏物語」といった良書を出版している。日本アイアール2代目社長、矢間伸次氏は、自らの夜学体験を記した「夜学」を宇野書店より出版している。
1974年10月、資本金120万円に増資して日本アイアール株式会社を社名登録する
株式会社リコー「情報機材部」の販売代理店として、「特許公報のマイクロフィルム」「マイクロリ-ダ機材機器」「公開特許抄録」の販売を開始する。この1974年10月を当社の創立記念日として定める。当時「情報機材部」がやっていたことを説明しょう。「もの作り」をしている会社は必ず設計図面を作るので、それが大変な量になる。図面のままでは場所を取るので、それをマイクロフィイルムに撮影して保管する必要が生まれてくる。恐らくは「カメラ事業」から派生した関連事業と思う。単なるマイクロ撮影業務から脱皮し、マイクロ出版事業に注目した結果が日本特許公報の「マイクロ出版」である。特許の世界に足を踏み入れた結果、特許デ-タベ-スの構築へ繋がり「公開特許抄録」等の派生商品が生まれてくる。しかし、世の中は厳しいものである。いかせんマーケットが小さすぎた。
1979年、株式会社リコー「情報機材部」と「財団法人JAPIOが業務提携する
株式会社リコー「情報機材部」は特許情報サ-ビス事業を財団法人JAPIO(日本特許情報機構)と提携することで、その主業務を財団法人JAPIOへ移管する。矢間伸次氏は株式会社リコーを退職して日本アイアール株式会社へ転出する。日本アイアール株式会社は財団法人JAPIOの特約販売店として「公開特許抄録New-SDI」の販売をすることになる。この間、資本金は240万円、480万円と増資されている。
1979年、関東複写センター(特許公報の複写センター)を増設
株式会社リコー「情報機材部」より廃棄処分予定の日本特許公報を無償で払い受ける。但し貯蔵する場所はない、場所を確保しようにも金が無い。事務機の中古販売で大金持ちになったという石橋俊明氏を訪ねる。氏は、とにかくやるときはやると言う思い切りの良さがある。ちょうど自宅の隣が空き家だから(川口市安行)、そこを改造して工場にすればいいと話がきまった。氏の奥さんが工場長である。これで関東複写センターはスタートできた。
1980年、「特許速報版事業部」を設立する
特許年間総合索引の発行元である特許資料センター(個人会社)から業務を引き継ぐ。特許資料センターは昭和28年から「日本特許公告年間索引(分類別・出願人別)」、昭和46年から「日本特許公開年間索引(分類別・出願人別索引)」を日本で初めて作成した会社である。当時、コンピューターでの処理は不可能であったため全てを手作業で編集し(切り貼り、タイプ打ち)製本印刷していた。この特許年間総合索引は特許庁の資料館をはじめ多くの企業に採用された。当時、特許調査をする手立ては、膨大な特許公報か番号順に並べた目次しかなく、この「特許年間総合索引」の役割は革命的であった。その後、特許のデ-タ化は社団法人ジャパテック(財団法人JAPIOの前身)によってコンピユタ-へ蓄積され処理するようになった。これが「パトリス」である。コンピューター化によって「特許年間総合索引(年一度の発行)」は社団法人ジャパテックへ、「特許年間索引速報版(半月一度の発行)」は、特許資料センターからの発行と棲み分けられた。この年、特許資料センターの創業者の引退により当社がその業務を引き継いだ。因みこの「特許年間索引速報版」は中国専利局をはじめ、各省の特許資料処(10箇所)へ輸出された。
1983年、特許出願台帳管理ソフト「MASYS-PA」を開発して販売を開始する
まだパソコンが出始めて間もない頃である。NECの「PC-8801」という8ビットパソコンで漢字変換入力システムも無い時代である。まだどこもやっていない分野である。当時は汎用コンピュ-タを使って大きなシステムで運営している特許部もあったが超大手企業に限られていた。それをパソコンレベルでやろうと企てた。ニーズは間違いなくある。しかし開発するには金も人も無い。そこで知り合ったのが山崎俊則氏である。偶然にも彼は、勤めている会社で同じコンセプトの特許出願管理ソフトを開発していた。当社初の新商品開発は、お金なし、人手なし、で一気に進んだ。氏はいま、株式会社システムビルドの社長である。
http://www.nihon-ir.jp/?p=712
1986年、矢間伸次氏が代表取締役社長に就任する
この間、資本金は800万円、1200万円へ増資される。累積赤字2400万、借金3900万からのスタートである。42歳の男の厄年に矢間伸次氏は社長になった。もうこれ以上は悪いことは無いのであろう、「身のほど」を知って粘り強くやっていこう、と決めた。むしろ矢間伸次氏にとって厄年は縁起のいいもののように見えた、と言う。
1987年、特許公報の翌日配達を始める。いま思えば特許業界のアスクル(商標登録)か?
他社が嫌っている部分を当社がやることで生き残りの方策が見えてくる。他社は、たくさんの注文が出るところを大事にして仕事量の少ないところは大事にしない傾向がある。足を運ばないで、出来れば郵送や宅配で済ませていたいのが本心である。いちいち届けていたのでは手間がかかり儲からないことになるからだ。当社は他社が敬遠する部分をまずやってみることにする。これが明日も知れない「今にも潰れそうな必死な会社」のやり方ではないだろうか。「毎日配達をします、緊急処理もキチンとします。例え1件でも明日届けます、あなたの仕事を早く片付けるお手伝いを是非やらせてください」というセリフである。
1988年、特許教育用ビデオ「これで特許がわかった」「特許情報の活用」を作成
新入社員の特許教育入門編としてアニメ入りで作成する。日本アイアールのキラクター「はつめいくん」の誕生であったが、「特許を漫画でビデオ化するとは甚だケシカラン」と、随分とお叱りを頂いた。アニメで特許教育が出来る程、特許は易しくはないということである。しかし新入社員や女性社員に「はつめいくん」は評判が良かった。
http://www.nihon-ir.jp/?p=487
1990年、当社内に知的財産活用研究所を設立する。機関誌「知的財産」を発行する
特許は技術防衛の手段ではなく会社の利益を生む知的財産であるという考えが起点である。国際社会の一員として知的財産が会社経営において極めて重要な役割果たすことは確実である。常に訴訟の危険性を年頭に置いた(特に米国、中国)知財戦略が要求される。訴訟で会社が潰れないためにも・・・。これまで会社の特許部は権利を取る、守るための人材を育成してきたが、これからは情報に知恵をつけ「知」を生み出すことができる創造力のある人材教育が必要である。このような課題を研究テーマに選び、研究成果のレポート発表、ツールの開発、さらには研修セミナーの開催をもってお客様との情報交換を目的とする知的財産活用研究所を発足させた。我々の仕事に対する評価は恐らく10年以上の歳月が必要と思う (1990年10月、設立憲章から)
http://www.nihon-ir.jp/?p=427
1990年、「MC法」を実践するソフト「メモダス」の開発に着手する
創造技法「MC法」の考案者である長谷川公彦氏が知的財産活用研究所の名誉研究員として参加する。「MC法」とは、図解による創造技法(知的生産技術)の一つで「3×3方式」のマトリックスカードを使うフラクタル思考での創造技法である。これまでに「KJ法、マッピング法、MN法、曼荼羅法」とたくさんの創造技法が紹介されているが、パソコン利用でのソフト化は実現しておらず画期的な商品開発の挑戦であった。また、長谷川公彦氏は、この時期に殆ど知られていなかった「TRIZ」を学ぶために産業能率大学の「TRIZ特別研修」へ参加している。
http://www.memodas.jp/
1993年、特許専用の翻訳ソフト「PAT-Transer」の取り扱いを開始する
株式会社クロスランゲージの代理店となり、特許専用翻訳ソフト「PAT-Transer PC-9801版」の販売を開始する。特許専門の機械翻訳ソフトは、これまで存在せず「PAT-Transer」が業界の先駆けとなっている。
http://www.nihon-ir.jp/?p=485
1994年、創立20周年を記念して「身のほど経営のすすめ」をダイヤモンド社から出版する
日本アイアールは創業して20年になる。自分が社長になってからは8年。もともとは自分が前の会社に勤めていたときに思いつきで出来た会社で、ひょんなことから社長におさまることになった。例によって、中小企業の社長の金策と人材獲得の苦労を十分に味わってきた。バブルの浮かれ騒ぎも、うちにはとんと無縁に過ぎた。世はリストラの大合唱である。自分と同世代の人間が苦汁をなめている。配転に出向と首切りと、愛する会社から追われる境遇となった。我々の世代は日本の高度成長と軌を一つにして進んできた世代である。ひたすら会社を信じて会社の言いなりに身を捧げて来たと言っても過言ではない。会社経営がまずくなったからと言って、そんな人達を吐き出してしまう日本の会社とはそもそも何なのか。自分は大企業に15年勤めて大きなものは人を駄目にする要素が強いことを実感した。個人が尊重されず、まず組織が第1である。(中略)確かに小さな会社には明日も知れない不安定さがある。社員も居ついてはくれない。銀行も融資はしてくれない。日銭欲しさに利幅の薄い商品を売り歩かねばならない。それでも、どっこい生きている、という実感がある。小さな会社だからこそ、できることがあるのではないか。社員が幸せに生きられて会社も無理をせずに“身のほど”を知って成長すれば、すくなくとも個人をないがしろにすることはないだろう。小さな会社だからといって、卑屈になる必要なんてまるでない、と思っている。この難しい世の中で、少人数でも食っているだけでも偉い。そんな評価が大企業あたりに勤める人間から出るようになれば中小企業ももっと活力が湧いてくるだろうし、それが健全な社会だという気がする。本書は、自分の経験を中心にして中小企業の生き残り策を探ったものである。どこまで普遍性があるものなのか心もとない限りだが、大企業のくびきから脱した中小企業が元気にイキイキと生き残っていくための、ちょいとしたヒントぐらいにはなるかも知れないと思い書き下ろした次第である (本書:「本文」より)
1995年、ダイヤモンド社主催の「中国特許事情視察団」へ参加する
弁理士 黒瀬雅志氏を団長に総勢15名の視察団であった。当社からは2名参加する。矢間伸次氏が副団長を命ぜられた。この視察団のガイド通訳として、お世話になったのが張峻峰氏である。氏は現在、中国北京アイアールの総経理として活躍している。この視察団の訪問先は北京、上海、深セン、香港で、北京では中国国家専利局、北京中等裁判所、商工行政管理局、国際貿易促進委員会特許事務所を敬意訪問した。「国際貿易促進委員会特許事務所日本部」の中国弁理士、王礼華先生の知遇を得る。王礼華先生は翌年、国際貿易促進委員会特許事務所の東京事務所長として赴任する。現在は「中国知的財産サービスセンター株式会社」の代表取締役で活躍をしている。深センのホテルのテレビニュースで地下鉄サリン事件を知る。
1996年、日本アイアール株式会社の主催で中国特許ツアーを催行する
参加者は総勢20名で訪問地は中国国家専利局、精華大学、国際貿易促進委員会特許事務所、柳沈渉外専利事務所を敬意訪問する。またタウンウオッチング(技術流通市場、模倣品市場、を見学する)と観光を兼ねたツアーは大好評であった。ガイド通訳は当社の秦辛華氏と張峻峰氏が勤めた。当時社員の秦辛華氏は1998年、(社)日本自動車工業会知的財産部会が催行した中国特許調査団の通訳に指名された。その後も諸団体の中国特許視察団のお世話をした。また当社主催の「台湾特許事情視察団」を結成して「竹園テクノセンタ-」等を訪問する。台湾からは「日本特許事情視察団」が来日し、そのお世話する。
1996年、欧州共同体商標庁(スペイン南部、アリカンテ市)ヘ訪問する
1996年4月から、ひとつの登録により共同体(この時点では15カ国)全域に同一の効力を有する商標権が獲得でき、日本人も共同体商標制度を利用して商標権を獲得することができる、ということで取材訪問をした。併せてスペイン最大の特許事務所、エル、ザブル事務所(マドリッド市&アリカンテ市)も訪問する。このとき、サポ-トしていただいたのが眞覚久美子氏である。氏は現在、スペイン弁護士(知的財産)、カルロス氏と共同でリ-ガル・スタジオ・スペイン&ジャパン(知的財産権の侵害調査&係争)を経営している。
http://www.nihon-ir.jp/?p=439
1997年、「筋の良い研究テ-マを発掘する」データベースソフト「メモログ-ac」を完成させる
本ソフトの開発者は(故)久里谷美雄氏である。氏は日本企業、米国企業の両方に籍を置いて研究開発をしてきた。日本とアメリカの違いに視点をおいて物マネでない、日本の特長を活かした研究開発をするためには日本人技術者は今後どうしたら良いのか、彼らを助ける手立てはないのか、そのような観点から本ソフトは開発された。本ソフトの基本コンセプトは構造化した情報(個人の創造力)をチームで共有すること、その情報は絶えず再構造化され進化していくこと、そして、それらの情報は先輩達の創造力として次世代へ伝承されること。日本企業のR&D部門は「R」を重要視する社内文化がない、「調査研究」を軽視する社内文化の危うさに対して警鐘を鳴らし続けていた。
http://www.nihon-ir.jp/?page_id=442
http://www.nihon-ir.jp/?p=428
1999年、中国北京アイアールを設立する
この時期には当社の資本金は2000万円になっている。中国への特許・商標出願、中国特許・商標調査、中国特許公報の翻訳、技術文献、商品取り扱いマニュアル、契約書類等の翻訳、模倣品の調査と対策、を業とする現地化法人である。HLE社(中国北京アイアール)の総経理、張俊峰氏は1996年から日本アイアールの社員として日本の特許事情を学び、日本の商慣習をも身につけて帰国した。
2001年、NRIサイバーパテント株式会社の特約販売店となる
1993年から特許公報が電子化された。これによって当社のビジネスモデルは一気に崩壊する。これまで当社の経営資源は印刷で発行されていた紙公報であった。紙公報の発行量は膨大で扱い難い資源であるからこそ日本アイアールのビジネスモデルが成立していた。しかし、これからの経営資源は紙公報から電子公報へ変わったのである。我々、中小企業の経営能力では来るべきインターネット社会に対応するシステムを作れる金も人もない。社内ベンチヤ-を起業したNRIサイバーパテントの若い経営力と潜在能力に賭けて、新しい夢を共に追うことにした。
http://www.nihon-ir.jp/?page_id=303
2002年、知的財産活用研究所で米国特許明細書の検証を開始する
「日本企業から米国へ出願された米国特許明細書が意味不明でサッパリ理解できない、」と言う篠原泰正氏(知的財産活用研究所最高顧問)の提言により米国特許明細書の精査検証を始めた。技術を知らない翻訳者の質の問題も有るが、翻訳できない日本語が特許業界に蔓延り問題解決を遅らせていることが分った。米国への特許出願明細書は戦えない「紙クズ」であると結論つけた。氏は英語文章を早く正確に読む「3×3方式」の篠原メソッドを考案した。さらにボランティアで「SLE塾」を主宰し、論理的文章の書き方を教えている。「英文特許明細書の改善マニュアル」等の著作物は多い。
http://www.shinohara-eng.com
http://www.nihon-ir.jp/?page_id=31
2004年、「パソコンで学ぶ中国語」を商品化してテスト販売を開始
早稲田大学教授 楊達氏の研究成果を商品化するため、当社内に株式会社WEICを設立。65時間で中国語検定3~4級合格を可能とした画期的なCD-ROM商品である。その後はウェブ教育へ進化を遂げ株式会社WEICは早稲田に戻り業務を拡大中である。
http://www.nihon-ir.jp/?page_id=227
2005年、知財ブログ「あいあ~る村塾」を開設する
ブログのコンセプトは、知的財産革命/篠原英語塾/篠原企画塾/やってられない中国/筋の良い研究テ-マの発掘法/難しくなる特許事務所の経営/高杉晋作と吉田松陰/その後の身の程経営/何事もほどほどに/矢間伸次氏の講演/
http://nihonir.exblog.jp/
2007年、中国弁理士 王礼華氏が中国知的財産サービスセンターを設立する
中国への特許出願明細書の惨憺たる状況を目にして「日本の損失である」と憤慨、自らが発明者と打ち合わせしながら中国で通用する中国特許明細書をつくる新しいビジネスモデルを展開中。ただし名医は心がけの悪い患者は診ない。一心同体になって、共に治す本気の心が要る。
http://www.cn-wang.jp/
2008年、知的財産活用研究所に「知的財産研修センター」を設立する
志が決まれば次は行動である、人が何をしてくれるかではなく、自分が何をするかだ、いま自分が居る場所、立場で何ができるのか、それを考えて実行に移せば新しい自分が生まれる(吉田松陰先生の言葉)いくら知識を詰め込んだところで、実務で役立たねばその知識は無駄となる。「知的財産研修センター」は自分の頭で考え自ら正しい行動が取れる「知財スペシャリスト」を育成するために設立宣言をする。
http://www.nihon-ir.jp/chizaiCenter/
2009年、知的財産部門の「ムダゼロ運動」を推進する。
現在の資本金は3100万円となる。「もやし特許」の撲滅を目指して新しいサービスを絶え間なく提供し続ける。
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